補陀落渡海記 西国巡礼

休暇村「南紀勝浦」から熊野灘の夜明け前の眺望。

 

 

補陀落山寺にある「渡海記念碑」

「熊野年代記」によれば、868年から1722年の間に20回実施されたという。

 

 

補陀落渡海記(ふだらくとかいき)

 

まず白洲正子さんの「西国巡礼」から引用する。
「国鉄那智駅の近くに、補陀落山寺がある。浜の宮ともいう、いにしえの王子の跡で、ここでも神仏は仲良く同居している。補陀落というのは、観音の住む浄土の謂で、那智の御詠歌も「ふだらくや岸打つなみ」ではじまるが、平安末期から鎌倉時代へかけて、この寺から西方に向かって船出し、入水すれば、極楽往生疑いなしという信仰が起こった。平維盛をはじめ、多くの人々が、固くそのことを信じ、永遠の旅路におもむいた……廃寺に近い寺のたたずまいも、侘しく、そのくせ海浜のせいか、妙に明るい。それはそのまま断ちがたいきずなを切って、微笑みつつ入水した人々の表情のようにも見える。」

 

井上靖の短編小説「補陀落渡海記」は1961年「群像」10月号が初出らしい。
5年後の1966年ごろ、当時高校一年生の私は、初めてこの小説を読み、何とも言えない「不快」を感じ、「やるせない」気持ちになったのを覚えている。小説は次のように始まる。
「熊野の浜ノ宮海岸にある補陀洛寺の住職金光坊(こんこうぼう)が、補陀落渡海した上人たちのことを真剣に考えるようになったのは、彼自身が渡海しなければならぬ年である永禄8年(1565)の春を迎えてからである。それまでも自分の先輩であり、自分が実際にその渡海を眼に収めた何人かの渡海上人たちのことを考えたことがないわけではなかったが、同じ考えるにしても、その考え方はまるで違ったものであったのである。」

 

さしたる覚悟もなく、流されるように補陀落渡海に臨む金光坊の曖昧な態度は、確かに人間味はあるのだが、60年生きてきた修行の成果が見えず、仏道修業とはその程度のものなのかと、高校生の私は「不快」に感じ、「やるせない」気持ちになったのかもしれない。
古希を迎える年齢になって改めて「補陀落渡海記」を読み返し、高校生の若気の至りを恥じる気持ちもある。
再読した今では「不快」とまでは思わないが、「やるせない」気持ちに変わりはない。


「補陀洛寺は確かにその寺名が示す通り補陀落信仰の根本道場である。往古からこの寺は観音浄土である南方の無垢世界補陀落山に相対すと言われ、そのために補陀落山に生身の観音菩薩を拝し、その浄土に往生せんと願う者が、この熊野の南端の海岸を選んで生きながら船に乗って海に出るようになったのである。」

 

熊野の海を見ていると、山がせり出して崩れ海に落ちていく感覚になるときがある。
「不快」でないという意味は、多分そこにあるのだろう。
人間だけが海に落ちていくのではなく、人間を含めたすべての物と事が、落ちていくのだ。
「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という言葉がある。大原野「正法寺」の住職吉川弘哉師によれば、

 

 

 

「豊かな自然の中にいると、人間だけが生きているんじゃない。木も動物も皆互いに助け合って生きている。ということが実感できます……白砂に浮かぶ庭園と、はるかにかすむ京洛東山の山並みを眺めながら、千万年の風雪を越え歴史を見つめてきた石の数々と対話するとき、大自然の弛みない営みの中に育まれ生かされてきたもう一人の自分に出会う……
山川草木すべてに仏性あり」

 

「草木国土悉皆成仏」というと、普通「草木や国土のような非情なものも、仏性を具有して成仏する」と教えられる。「いわんや人間を哉」ということだろう。
熊野にいると、そういう仏法臭い説明よりも「森羅万象」すべてに霊魂は宿るという古神道的な考え方に親近感を覚える。


人間だけが補陀落渡海で成仏するのではなく、草木や山までも海に崩れ落ちてやがて成仏するのだ。人は死んでから約49日で崩れ落ち成仏するが、草や木や山はもう少し長いスパンで成仏するらしい。海に沈んでいく山の切れ端がそれを物語っている。

 

本居宣長は「古事記伝」を執筆中に弟子に「死後の世界はどういうものですか」と問われ、「そんなものはない。古事記にも書いてあるが、人間は死ぬとただ腐って溶けていくだけだ」と答えたと言われている。古事記には死後の救済の思想がない。というのが本居宣長の言である。
イザナギは黄泉(よみ)の国へ死んだイザナミを追って連れ帰ろうとするが、見てはいけないというのを見てしまい、イザナミの腐って溶けていく姿に、たまらずイザナギは逃げ出すという有名な話がある。そこには確かに死後の救済の余地はないように思われる。
のちに仏教が日本に伝搬すると、神道の欠けた部分(救済)に鋭く切り込んで、極楽浄土の救済思想が日本全国に広く伝わるようになる。


「草木国土悉皆成仏」もまた、日本で固有に発達した仏教思想である。仏教発祥の地インドには「草木国土悉皆成仏」と書かれた経典はない。

 

白洲正子さんの「西国巡礼」から再度引用する。
「山にまつわる伝説は暗いが、景色は明るく、勝浦から潮岬まで、一望のもとに見渡せる。神武天皇が上陸されたという海岸も、維盛入水の哀話を秘めた山成の島も、目近にある。私の歴史的知識はいたって散漫だが、こんな景色があれば何もいらない。もしかすると、そういうことを極楽浄土と呼ぶのではないだろうか。」

 

<参考書籍>
補陀落渡海記(井上靖)講談社文芸文庫(2000年)
西国巡礼(白洲正子)講談社文芸文庫(1999年)

 西国三十三所をあるく(JTBパブリッシング)2015年

 

 


ひっそりと佇む補陀落山寺。

本堂の右隣には熊野三所大神社(浜の宮王子)がある。

 

大門坂(だいもんざか)までの熊野古道は細く、行き交う人も少ないので、バスか車でここまで来た方が無難。

 

石畳が美しい。

 

西国巡礼第一番札所「青岸渡寺」の道標あり。

左の鳥居をくぐり、熊野那智大社へ向かう。

 

<参考>

2019年5月に大原野「正法寺」を訪れた。

石の一つ一つに鳥獣の見立てがなされている。

白壁沿いの左の大石が「ふくがえる」で右の大石が「しし」と言われている。他所ではあまりお目にかからない「りす」「へび」などもいる。

 

補陀落山寺の脇を抜けて熊野古道に入る。

標識があるので、その通り歩けば、迷わないはずだが。

 

推定樹齢800年の「夫婦杉」から、熊野古道でも人気の大門坂を登って行く。

 

お前立の観音菩薩。

 

熊野那智大社の大鳥居の中に熊野の山々が見える。

青岸渡寺と那智大滝は次の機会に紹介する予定だ。

 

<参考>

串本の橋杭岩が有名だが、人の写真を使うのも気が引けるので、車窓から撮った別の写真を掲載する。

山が崩れて海に落ちていく様子がわかるだろうか。

南無阿弥陀仏。