大和観光ツアー 湖水のほとり

金大巌(こがねのおおいわ)

 

 

2月27日、鶴喜そば本店前で記念撮影。東京シティガイドの皆さんを大津京から日吉大社へご案内した。

 

 

大津京から日吉大社へ

                       2020.2.27

 

今から1300年前、日本書紀が編纂され、日本は日本国と皇統の正当性を世界にアピールした。当時の世界とは中国を中心とする東アジアを指す。

日本書紀の生まれる50年前、西暦670年には大津宮で天智天皇が日本で初めての戸籍と言われる庚午年籍を編纂し、律令制の基礎を築いた。


663年の白村江の敗戦から、一刻も早く立ち直る必要があり、天智天皇は律令国家建設のための改革を急いでいた。
当寺の日本は倭(倭国)であり、天皇は治天下大王と称していた。

「2月、戸籍を作り、盗人と浮浪者とを取り締まった。同月、天皇は蒲生郡の日野にお越しになり、宮を造営すべき地をご覧になった。」(日本書紀p235)

 

672年、天智天皇の死の翌年「壬申の乱」が起こり、大海人皇子(のちの天武天皇)が、大友皇子を破り、大津宮は5年余りで廃都となった。

「1974年10月中旬の夕刻、私は南滋賀の調査事務所から、仕事を終えて三井寺前の下宿に向かって歩いていた。すると、錦織の志賀宮址碑のすぐ南側で民家を取り潰した後、今にも工事にかかろうとする掘削用重機が据えられているのが目に入った。すぐさま土地所有者を探し、この土地が持つ意味や発掘調査の必要性などを懸命に説明し、工事の一時中止と事前の発掘調査の承諾をお願いした。」(大津京と万葉歌 p100)

 

「磐座と磐境の区別ははっきりしないが、前者は神が降臨するところで、後者はその神聖なひろさを示したように思われる。依然としてはっきりしないのは同じだが、古代人の考え方は割り切れないのがふつうだし、割り切らない方がいいと思う。」(近江山河抄p81~82)

 

日枝神社が日吉大社になるのは戦後のことらしい。もともと「ヒエ」という音があり、比叡山、日枝神社はそこからきている。表音文字と表意文字の二方向の文字表現を持った日本は、もともと豊かな感情表現を得意とした。しかし、日吉大社を「ヒエ」と読ませることに抵抗を感じた神主さんが、日吉大社を「ヒヨシ」と改めてしまった。今では日吉大社を「ヒエタイシャ」と読む人は少数派に転落した。

 

織田信長が比叡山を焼き討ちした1571年、比叡山の東側にある坂本の総本宮も被害を受けた。後に日吉大社の大修築を行い立派な社殿にしたのは秀吉で、その幼名「日吉丸」から「日吉神社」と表記するようになったという。一説には日枝神社の「枝」は先細りで縁起が悪いので、平安時代に「吉」の文字が充てられたともいう。

 

 

 

 

当寺、「日枝」にしろ「日吉」にしろ、「ヒエ」と呼ばれていたのは確かで、戦後の国語改革の影響で「ヒエ」を「ヒヨシ」と改めて今に至る。

 

「古事記」によると日枝神社は大山咋神を祀り、奥の磐座「金大巌(こがねのおおいわ)」は玉依姫の御陵であるという。大山咋も玉依姫も、初めからの固有名詞ではなく、山霊とその魂が依る神、もしくは巫女を表したもので、周囲に古墳が多いのを見ても、先史時代(縄文)からの祖先の墳墓であったことがわかる。

 

縄文時代の自然信仰は本当のところ、わかっていることは少なく、想像の域を出ない。
が、稲作の始まった弥生以降の自然信仰は大体次のようなものだろう。
「山の神は、春になると雪解け水に乗って山から下りて来て、里の桜など花々を咲かせ、やがて地に潜って田の神となり、秋に黄金色に輝く稲穂を実らせる」


田舎の神社の多くが奥宮、里宮、田宮の三層構造であることから、大体そうだと思う。
もっとも、農業従事者が4%程度の現代では、田宮の存在意義は失われつつあり、都会に住む消費者には「日本人の尻尾」にしか見えないだろう。

 

黄金色の稲穂が揺れる様子は「豊穣の海」で三島由紀夫がイメージしたとおりだと思う。
三島はかつて「豊饒の海」の由来を聞かれ、「月の海の一つに豊饒の海がある」と答えている。三島は作品完成前に有人ロケットの月面着陸が行われることに触れ、「人類が月の荒涼たる実状に目覚めるときは、この小説の荒涼たる結末に接するときよりも早いに違いない」と述べている。これは三島由紀夫の韜晦(とうかい)と見るべきだろう。

 

なお、山の神の多くは女神で、日吉大社の場合、玉依姫になる。日吉大社はまた「山王社」ともいわれるが、「山王」とは大山咋神を指すと思われる。

 

あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る(額田王)
紫草のにほえる妹を憎くあらば 人妻ゆえにわれ恋ひめやも(大海人皇子)

 

<参考書籍>
日本書紀(宇治谷孟)講談社学術文庫1988年
大王から天皇へ(熊谷公男)講談社学術文庫2008年
大津京と万葉歌(林博通)新潮社2015年
近江山河抄(白洲正子)講談社文芸文庫1994年
かくれ里(白洲正子)講談社文芸文庫1991年
白村江(荒山徹)PHP文芸文庫2020年


弘文天皇陵。

大友皇子が即位したかどうかは分からないが、明治になって諡号が贈られた。

 

新羅三郎義光の墓。

長男は八幡太郎義家、次男は賀茂次郎義綱、三男は新羅三郎義光で……団子三兄弟♪♪

 

南光坊天海の霊廟「慈眼堂」

天海は家康、秀忠、家光の徳川三代将軍に仕えた。

他に日光輪王寺、川越喜多院に霊廟がある。

 

日吉大社

西本宮→白山宮→三宮(金大巌)→東本宮と回った。

当日は小雪のちらつく天候で、19日下見の写真を使う。

 

西教寺。明智光秀一族の菩提寺。

NHK大河ドラマの影響で、ここまで足を延ばした。

 

新羅善神堂(国宝)

三井寺の創建前に大友村主氏族が、氏神として新羅明神を祀っていたと言われている。

 

大津宮錦織遺跡(第一地点)

1974年、最初に発見された大津宮。

林博道先生が28歳の時に偶然発見した。

 

穴太積みの石垣に沿って日吉大社に向かう。

穴太衆積みとも言われ、渡来系の穴太衆が古墳の石室づくりを通して、石組み技術を磨いたのではないかと思われる。

 

金大巌(こがねのおおいわ)。玉依姫の御陵と言われ、比叡山信仰の原点ともいえる。延暦7年(788)最澄は比叡山に一条止観院(のちの根本中堂)を創建。

 

金大巌の近くで、琵琶湖方面を撮影。

奥に見えている三角形の山は三上山(近江富士)