長命寺津田山の磐座(いわくら)滋賀県

 

 

神仏の庭から日本国王の庭へ

 

縄文時代の信仰については、分かっていることが少ない。それは文字で残されたものがないことにもよるが、中世以降の仏教文化(神仏習合)による宗教観が縄文時代の信仰の姿を歪めていることの影響が大きいと思う。

縄文時代には大岩や大滝などの自然物が畏怖の対象となり、縄文人の宗教観を形作っていった。やがて稲作が日本に入ってくると、弥生人の宗教観はおおむね次のように表現できる。

高山に降り立った神々は、山頂付近の大岩から流れ下り、やがて里山の桜など木々の花を咲かせ、地に潜り姿を変えた神々が田を潤し、秋には豊饒の海のような稲穂を実らせる。

農民が全人口の8割以上を占めた江戸時代には奥宮・里宮・田宮の三層構造の宗教観はこのように表現されるようになる。が、現代日本では農業人口が4パーセントを切り、田宮の存在は忘れられようとしている。さらに2020年から3年続いた新型コロナにより、村祭りは中断を余儀なくされ、継承者不足によりそのまま再開されない祭りも多いと聞く。

そうやって日本人の尻尾は忘れ去られていくのだろう。

 

初期の庭園の形態は石を立てることから始まった。

山頂付近の大石を磐座として祀っていたものを、里でも手を合わせられるように大石を組んだものが庭園の起こりと考えられている。石を立てることが宗教行為になっていたともいえよう。

 

庭園における三尊石組み、蓬莱石組、須弥山、滝石組などは室町時代に一応の完成をみる。

1571年、織田信長の比叡山焼き討ちが一つのきっかけとなり、神仏の庭から人間の庭に大きくシフトしていくというのが大方の庭園史の見方であろう。安土桃山時代以降を近世として、中世を終わらせたのが信長・秀吉ということになる。

 

しかし、神仏の庭が進化論における恐竜の絶滅のように姿を消したかというとそうではない。例えば昭和初期に活躍した重森三玲のように、神仏の庭の復権を高々と唱えた作庭家もいる。庭園史を進化論的に俯瞰することにはおそらく意味がない。様々に展開される庭園は作庭家による「様々なる意匠」があるだけのように思われる。

 

「重森三玲モダン枯山水」から引用する。

日本の庭は最初に自然があった。

それは人間が越えることのできぬ偉大なもの、そして美しいもののあることを知っていたからである。日本民族はその初期において、天にある神を信じていた。日本の神は人間の理性や感情から出たものではなく、自然の中にあるものと信じていた。自然が同時に神の存在であり、自然と神とを同一視していた。

東天に昇る太陽を崇拝し、高山や森林を崇拝し、巨石や群石を崇拝し、大海を神格化した。太陽信仰は、朝廷という政治に具現され、高山は築山に、森林は神籬(ひもろぎ)に、巨石や群石は天津磐座(いわくら)や磐境(いわさか)に具現された。やがてそれは庭園発想の根源となったのである。

日本の庭は、最初に自然があったけれども、縮景や、再現や、抽象の形をとらざるを得なかった。したがって、あくまでも自然を基本としながらも、超自然の領域にまで出ていったのである。

  

 

 

石を立てる

 

かつて石を立てることは宗教行為であり、修行であった。現代では石を立てることは庭造りと同意になっているだろう。が、その意図するところは大いに違いがある。

農が宗教行為(修行)であり、現代農業が生業であることと似ていなくもない。

かつて禅寺には庭造りの得意な僧がいて石立僧と呼ばれた。やがてプロの庭造りと見なされ、石立僧は集団を作り、各地で専門的な庭造りを行うようになっていった。

石立僧としてもっとも有名な人物は夢窓国師(1275~1351年)であろう。京都の西芳寺と天龍寺庭園が有名であるが、夢窓国師らしさが最もよく出ているのは多治見の永保寺庭園だと思う。

 

<用語の基礎知識>

磐座(いわくら)磐境(いわさか)石神(しゃくじ)

 

縄文時代の信仰については証拠となるものは少ないが、大石とか大滝が信仰の対象になっていたように思われる。稲作が始まると磐座・磐境・石神が信仰の対象としてはっきりしてくる。

磐座は神の降り立つところで比叡山坂本の金大巌(こがねのおおいわ)が典型。ここに立つと古くからの信仰の対象であったことが実感できる。

 

磐境は他に「磐栄」「磐坂」等とも書き、神域にあたる。磐座と同義とする説もあるが、磐境はもう少し広い範囲を指すようだ。

 

石神を「しゃくじ」と読むのは東京都北部を流れる石神井川(しゃくじいがわ)から出ており、一般的には「いしがみ」で構わない。ただアイヌ語が語源であることから相当古い時代から石神が信仰の対象であったことをうかがわせる。石神の多くは棒状に加工されている。

 

 

 

<参考資料>

日本の庭園(進士五十八)中公新書2005年

 重森三玲モダン枯山水 小学館2007年

 



沙沙貴神社(滋賀県)の境内

磐座と礼拝石が配置されているが、日本の初期庭園とも言える。

  

 

比叡山(滋賀県)金大巌(こがねのおおいわ)

玉依姫の御陵と言われ、比叡山信仰の原点ともいえる。

後に最澄がこの地に入ってくることにより、神と仏の融合が起こる。

 

松尾大社(京都府)の上古の庭

重森三玲の最晩年の作で、二柱の大岩は大山咋神(おおやまくいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を表す。

 

龍源院(りょうげんいん)南庭(京都府)

禅の庭としてよく見られる鶴亀蓬莱の庭で、遠近法を使い手前の亀島を大きく、右奥の鶴島を小さく作っている。