花山院菩提寺より有馬富士を望む
有馬富士より、ここの方が少し標高が高いようだ。
番外札所「花山院菩提寺」
白州正子さんの「西国巡礼」から引用する。
花山院が晩年を送った寺は、三田(さんだ)の町の近くにある。
「大鏡」にも、院はその「くるひ」にも拘わらず、風流を愛されたとあるが、この寺の環境は特別いい。尼寺(にんじ)という麓の部落から、七、八丁(約800メートル)登った山の上にあり、院の御廟は一段高い場所に、低い土塀に囲まれている。その塀の向こうに有間富士が見え、六甲山を隔てて淡路から、播磨の海へ広がる風景は、浄土さながらの美しさだ。(以上引用)
花山院バス停から琴弾坂をゆっくり30分ほど登ると山門につく。
花山法皇が隠棲し、41歳の生涯を閉じた寺として、西国札所の中でも別格の聖地とされる。寺は第25番「播州清水寺」と第26番「一乗寺」の開山である法道仙人により、白雉2年(651)に開かれたもので、花山法皇が巡礼の途中に深く心に留めた地であったという。
巡礼を終えた法皇は再びこの地を訪れ、終の棲家と定めた。本尊は薬師瑠璃光如来。
他に花山法皇殿には、法皇が帰依した十一面観音像が安置されている。
琴弾坂を下りたところに十二尼妃の墓がある。花山法皇に仕えた女官たちの墓だ。ここに隠棲する花山院を追ってこの地に来たが、女人禁制のため入山は許されず、麓で尼僧となり生涯を終えたと伝わっている。
花山天皇は永観2年(984)17歳で即位し、寛和2年(986)19歳で出家した。その出家は藤原兼家・道兼親子に翻弄されたものだが、道兼は七日関白といわれ、短命(35歳)で生涯を閉じている。
花山法皇は出家して22年後(1008年)に41歳で没しているが、亡骸は京都に移送され、紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ)に葬られた。人生に優劣はないというものの政争に明け暮れる道兼より、風流に生きた花山院の方に後の人々は親愛の情を感じることもまた止むを得ないように思う。
名にし負はば我が世はここに尽くしてむ 仏のみ国近きわたりに(玉葉2631)
帰路は少し遠回りだが、有馬富士を目指し、有馬富士公園を通って新三田駅まで2時間以上歩いた。少々無理をしたようで、翌日ふくらはぎが痛くて歩けず、ホテルで過ごした。
花山院菩提寺山門
本堂には薬師如来が安置されている。
琴弾坂
女官たちはここまで琴弾に坂を登ってきたという。
有馬富士を目指し、歩き始める。
有馬富士公園までやってきた。
花山法皇は没後、京都にて葬られた。
紙屋川上陵(かみやがわほとりのみささぎ)
花山法皇殿
花山法皇御廟所
麓の尼寺には十二妃の墓がある。
これもまた壮絶な人生に思える。
有馬富士頂上近くまで登ってきた。
福島大池に映る有馬富士
こじんまりとした陵で、派手なものより、この方が花山法皇にふさわしいかもしれない。