長等山園城寺の仁王門(重要文化財)

もともと甲賀の常楽寺にあったものが、信長の襲撃により奪われ、のち伏見城に移された。

慶長6年(1601)徳川家康の寄進により、三井寺に移された。

 

 

第14番「三井寺」

 

三井寺は正式には長等山(ながらさん)園城寺(おんじょうじ)といい、天台寺門宗の総本山である。

三井寺の歴史は古く、今から1300年以上前の天武天皇15年(686)、大友皇子の子、大友村主(すぐり)与太王によって建立されたといわれる。

長等山は神奈備山(かんなびやま)で神のおわす山、もしくは神の降臨する山で、古くから信仰の対象であったと思われる。三井寺の近くには長等山を背景に長等神社があり、創建は三井寺より古い。

 

長等神社のホームページから引用する。

「長等神社は西暦667年頃の天智天皇の御世、近江大津宮の鎮護として長等山岩座谷の霊地に須佐之男命を祭祀されたことを起源とする1300年の歴史を持つ神社です。後に園城寺(三井寺)の守護神として勧請合祀された大山咋大神(日吉大神)など五柱の主祭神を祀る神社として、繁栄と安定を願う多くの皇族の方々や著名な武将に愛されてきた大社です。」

 

ここにいう「著名な武将」の一人に平清盛の末弟平忠度(ただのり)があげられるだろう。

平忠度(1144年生~1184年没)は平清盛の異母弟にあたる。文武両道の歌人として知られ、平家一門の都落ちに際し、いったん都を出た後京に戻り、自分の歌百余首が収められた巻物を藤原俊成に託した。俊成は朝敵となった平家一門の名前を出すのを憚って、「千載和歌集」に詠み人知らずとして「故郷の花」を掲載した。

 

さざなみや志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな

 

「さざなみや」で始まるこの歌は、戦前の教育を受けた人なら当然知っている常識のようなものだが、「昔ながらの」が「長等山」にかかる掛詞だったとは、2016年に大津に住み始めるまで知らなかった。その土地に来なければわからないことは確かにあるようだ。

「故郷の花」と題したのが藤原俊成なのか平忠度なのかわからないが、平忠度が都落ちに際して、二度と故郷の桜を見ることはないだろうと予感していたことは確かだろう。

もっとも平忠度自身は成人するまで母の出身地である熊野で育っているので、このあたりが故郷であるとは思えない。

 

三井寺には観音信仰のほかに見どころが多く、文章が少々長くなるかもしれない。

園城寺が一般に三井寺と呼ばれるのは、境内に三帝(天智・天武・持統)の産湯に使われた霊泉があり「御井の寺」と呼ばれたこと、また、平安前期に寺を中興した智証大師円珍がその水を三部灌頂の儀式に用いたことによる。金堂の西側にある閼伽井屋(あかいや)には、今もボコボコと絶えることなく、御井の霊泉が湧き出ている。

 

 

 

閼伽井屋のすぐ北隣に蓬莱石組みが見られる。重森三玲氏の著作によれば、日本最古級の庭園遺構だそうだ。最初、とても庭園遺構にはみえないものの、閼伽井屋の建物と金堂を取り払って考えるとイメージとして蓬莱神仙の庭が浮かび上がってくる。北から蓬莱、霊泉そして広大な池の広がりが想像できる。

 

長等山から如意ケ嶽の尾根道を通り、大文字山から鹿ケ谷霊鑑寺へかけて、かつて三井寺塔頭寺院の堂宇が点在していたらしい。

 

2016年当時、何度も三井寺から如意ケ嶽そして大文字山に足を運んだが、如意ケ嶽山頂近くの山中で、人為的に立てられた大石の庭園遺構を発見し、なんだろうと思っていた。

今回グーグルマップで調べると、灰山庭園跡と記載がある。

灰山庭園は園城寺別院の山岳寺院・如意寺に関連する遺跡とされ、比叡山を借景とした枯山水の庭園であったとされるが、詳細は分かっていない。

 

購入した三井寺の公式ガイドブック(全56ページ)によれば、三井寺の堂塔伽藍は中院、南院、別所、北院に分けられる。今回は観光客が足を延ばさないであろう北院に焦点を当ててみる。

 

明治の日本美術研究家・フェノロサの墓のあることで有名な法明院は、享保年間(1716~1736)の創建。眼下に琵琶湖が一望のもとに開ける景勝の地。書院には、鶴沢派の祖・大森捜雲やその画系の丸山応挙・池大雅等の襖絵が多数残されている。

 

三井寺の鎮守神・新羅明神像(国宝)を祀る北院の中心堂舎が国宝の新羅善神堂である。荒れた参道の先にあるので、初めて訪れたときは「かくれ神」に出会った趣があった。

新羅明神は智証大師が入唐求法より帰朝される船上に現れ、「我は新羅明神なり、汝のため護法の神とならん」と告げられたことから、大師が現在地に祠を建立されたのが始まりという。現在の社殿は三間社流造の代表的な建築で、貞和3年(1347)足利尊氏が再興したものだ。

 

源頼義(988生~1075没)はことに新羅明神を尊崇し、三男義光(1045生~1127没)を社前において元服させ、新羅三郎義光と名付けた話は有名であろう。以来、三井寺は源氏の氏寺として厚い信仰を受けることになる。新羅三郎義光の墓も法明院と新羅善神堂の間の山中にひっそりと建っている。

 

天智天皇(626生~672没)が大津宮で即位してわずか5年ほどで蜃気楼のように大津宮は失われる。新羅善神堂の参道前にある弘文天皇陵(大友皇子の墓)だけが当時を偲ばせる。

 

 


長等神社への参道。

赤い朱塗りの楼門が見えてくる。

 

お参りをしようとしたら、生きた猫がいた。

猫に参拝することになろうとは。

 

階段を上らないと観音堂には行けない。以前は山の上にあったが、室町時代にここまで下したという。

 

三十三とは、八百万と同じく、無数にあることを意味する。衆宝観音には三井寺で初めて会った。

 

閼伽井屋近くの蓬莱石組み。

重森三鈴氏によれば日本最古級の庭園遺構という。

 

閼伽井屋と金堂を取り除けば、蓬莱神仙庭園のイメージが広がる。平城宮東院庭園を想像する。

 

三井寺から長等山を目指す。

6年前より道標などが整備されている。

 

2016年に撮影した灰山庭園遺跡。

大石が人為的に配置されている。

 

新羅善神堂へ向かう荒れた参道。

突き当りを右に曲がると新羅善神堂が見えてくる。

 

新羅善神堂近景。

足利尊氏により再建された。

 

 

さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな

境内に平忠度の歌碑が立つ。

 

琵琶湖疎水の水は三井寺観音堂下のトンネルを通って山科に抜ける。今は定期観光船がトンネルに入る。

 

元禄2年(1689)再建された観音堂。

ご本尊は如意輪観音。

 

毘沙門堂の近くの衆宝観音。

大変穏やかな良い表情をされている。

 

閼伽井屋の内部。

霊泉が自然に湧き出している。

 

2014年に見学した平城宮東院庭園の蓬莱石組。出土した状態で復元されたとのこと。作庭時は立石が多かったと思う。

 

長等山の山頂付近から近江大津宮を望む。

今はイオンの看板が見える。

 

比叡山を借景にしているとの記述あり。

根拠はこの遠山石だろう。比叡山に似ている。

 

新羅善神堂遠景。

かくれ神の雰囲気が漂う。

 

弘文天皇陵。

大友皇子が即位したかどうかは疑わしい。