華厳寺仁王門を裏側から撮ってみた。

三十三所を回り終わって、すがすがしい気持ちで帰途に就く。

 

 

第33番「華厳寺」

 

5月19日、午前中から気温がぐんぐん上がり、夏日(25℃)を超えてきた。

谷汲口から歩き始めてT字路で道を間違え、時間をロスした。が、なんとか一時間ほどで昆虫館までたどり着いた。汗だくである。

 

2001年、ここまで運行していた名鉄谷汲線が廃線となり、華厳寺への最短ルートが絶たれた。昭和2年(1927)谷汲山華厳寺十一面観音菩薩「御開帳」に合せるべく、工事は昼夜兼行で進められ、大正15年(1926)4月に全線が開通している。御開帳の時期は乗客数が飛躍的に増えて積み残しが出るほどであったが、御開帳が終わると乗客数は減少し、昭和金融恐慌の影響もあり、業績は悪化した。

 

娯楽の少ない戦前から戦後すぐのころまで、西国巡礼は人気で、ここ華厳寺の参道も大いに賑わったことだろう。今、当時の面影はない。

樽見鉄道谷汲口駅で出会った老婆は、50年前の思い出話を問わず語りに語ってくれた。

本巣から嫁に来たときは心細かったが、村の世話役が月に一度の華厳寺参拝に誘ってくれて、参拝はともかく、帰りの鰻重が楽しみで、参拝を心待ちするようになった。最初12~13名で参拝していたが、10年経つ位から一人抜け、二人抜けして、新人も入ってこないまま20年位前には参拝しなくなった。そのころ名鉄も廃線になった。

山から切り出す石灰で山容も変わり、神奈備の山に、もう神様はいないだろう。

 

 

 

 

世を照らす仏のしるしありければ まだともし火も消えぬなりけり

 

白洲正子さんの「西国巡礼」から引用する。

これは三井寺の覚忠(1149~1216)が、西国巡礼の途上に詠んだ歌だが、現在は谷汲の御詠歌になっており、御詠歌の中で、はっきり身元の分かっているのはこれ一つである。

当時は三十三か所の順序も決まっていなかったので、覚忠は竹生島から谷汲に行き、そして観音正寺、長命寺、三井寺と、逆のコースを辿った。

 

谷汲さんと親しまれる華厳寺は、西国三十三所の中で唯一岐阜県にある。境内には、満願成就を報告する満願堂や、巡礼用具を奉納する笈摺堂(おいずるどう)、精進おとしの鯉などがある。

車や鉄道のなかった昔の人々は、1000キロメートルにも及ぶ過酷な巡礼を華厳寺で終え、晴れ晴れと東国に帰っていったのだろう。

 

現代人の私に、昔の人々のような達成感はなく、何か忘れ物をしたような気さえする。たぶん、「老人は浄土を目指す/みんなの西国巡礼」を書き終えたときに、ようやく西国巡礼が終わるのだろう。

 

<参考図書>

西国巡礼(白洲正子)講談社文芸文庫1999年

 


谷汲口から歩き出してすぐの頃。

神奈備の山と田。

 

華厳寺参道近くの昆虫館にある名鉄谷汲駅の遺構。

昆虫館はまだ営業を頑張っている。

 

階段の上に華厳寺本堂が見えてきた。

手前左は焼香場。

 

満願堂に向かう階段。その先にある奥の院は、さらに40分ほど登るので、今回は断念した。

 

三十三度石

 

道路の先に華厳寺。

この一帯だけ黄金色の大麦畑らしい。

 

華厳寺の長い参道。

15分ほど歩くと仁王門に着く。

 

笈摺堂の内部には菅笠などが奉納してある。

御朱印はここを含めて3種類。

 

本堂の柱には精進落としの鯉の彫り物。

みんな撫でるので、光沢がある。

 

参道から少し離れたところに、魚籃観音。

崖の上のポニョにも魚籃観音が出てくるような。