叡福寺の屋根の向こうに二上山(ふたかみやま)が覗いている。

山を越えれば大和だ。

大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和しうるはし(倭建命)

 

 

第5番「葛井寺(ふじいでら)」

 

コロナウィルスの影響で、古墳の出土品などを展示するアイセルシュラホールの見学が叶わなかった。それで今回は葛井寺から道明寺、古市古墳群からさらに東の上ノ太子まで足を延ばしてみた。そして、観音信仰から少し離れてなぜこの地に古墳群が造られたのかを考察してみた。

 

白洲正子さんの「西国巡礼」から葛井寺の概要を少しだけ引用する。
「近鉄藤井寺駅から歩いて5分とかからない。珍しく町中にあるお寺で、本尊は千手観音である。聖武天皇の御願により、大和長谷寺の観音と、同木をもって造ったと伝えられ、秘仏になっているけれども、こういう名作は、一応世間に知られている。ただし天平時代ではなく、藤原初期の作である。」

 

葛井寺を足早に出発して、仲哀(ちゅうあい)天皇陵、応神(おうじん)天皇陵、中津媛(なかつひめ)陵を見学して、道明寺に出た。道明寺は古代にこのあたりを本拠地としていた土師(はじ)氏が7世紀に創建した寺で、葛井寺より歴史は古い。土師氏は後に菅原姓に改め、平安時代に菅原道真を輩出した。道真は左遷先の太宰府に下る途中、伯母(覚寿尼)が住職をしていたこの寺に立ち寄り、別れを惜しんだと伝わる。
鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の 聞こえぬ里の暁もがな(菅原道真)

 

道明寺で桜餅を探したが、見つからなかった。事前に和菓子屋さんの情報収集をしておけばよかった。東京の長命寺には「山本や」という有名店があり、何度か入ったことがある。観光には食も大切な要素で今回は残念なことをしたと思う。

 

道明寺から近鉄南大阪線に乗り、古市で乗り換えて上ノ太子までやって来た。
駅を降りてすぐに駅前広場にある石のオブジェに引き付けられた。のちにそれが二上山(ふたかみやま)のモニュメントであると気づいた。が、こういう発見は嬉しい。
白洲正子さんの「西国巡礼」から、再び引用する。

 

 

「二上山の麓には、聖徳太子の御廟がある。これは札所ではないが、巡礼と関係があり、花山院が石川寺の仏眼上人に得度され、西国巡礼を思い立たれたところである。石川寺はどこを指すのか知らないが、石川という川があるから、御廟のある叡福寺の別名かと思う。境内には古い石棺や石塔がたくさんあり、一段と奥まったところにある円墳で、結界石をめぐらした周辺には、森厳の気がただよい、太子の強い信仰と、太子への信仰の深さを物語っている。」

 

二上山を東に越えるとまもなく橿原(かしはら)市にはいる。有名な大和三山はこのあたりにある。
香具山は畝傍(うねび)ををしと耳成(みみなし)と相あらそいき神代より……と歌われた大和三山もこの地域だ。
橿原市に古墳を作る場所がなくなってくると、西方浄土の思想と相まって、二上山を西に越えて、墳墓を作るようになったのではないかと思う。それがいつの時期か分からないが、ある時期から葬送の列が二上山を越えて羽曳野市に入っていくようになったのではないか。

 

羽曳野(はびきの)という名前は、ヤマトタケルが没後白鳥となってこの地に舞い降り、天高く飛び去った様子が「羽を曳くが如し」だったところから名付けられたという。
ちなみにヤマトタケルの白鳥陵古墳も古市にある。が、ヤマトタケル自体が伝説上の人物で実在したかどうか疑わしい。

 

叡福寺を後にしてせっかくここまで来たのだから、近くに八幡太郎義家の墳墓があるというので行ってみることにした。上ノ太子駅から叡福寺まで徒歩30分もかからなかったので、大丈夫だろうと高をくくっていたが、それから迷いに迷い多分2時間近く歩いたと思う。最後は上ノ太子駅より一駅遠い駒ヶ谷(こまがたに)駅に着いた。とんでもなく遠回りをしたものだが、これも観音様の思し召しと思えば腹も立たない。

 

<参考書籍>
「西国巡礼」白洲正子(講談社文芸文庫)1999年
西国三十三所を歩く(JTBパブリッシング)2015年

 


葛井寺の豪壮な南大門。

紫雲山(しうんざん)と書かれた扁額が見える。

 

アイセルシュラホール。

古代の木ぞり修羅(しゅら)をモチーフにしている。

 

中津媛陵。4世紀後半に造られたと推定。

応神天皇の皇后とされる。

 

道明寺天満宮。

道明寺より今ではこちらの方が大きい。

 

桜の開花状況は3~5分咲きといったところだが、所によっては写真に収めたくなる木もある。

 

上ノ太子駅前広場のオブジェ。

気になって写真を撮っておいて良かった。

 

広大な叡福寺の一角に聖徳太子の御廟がある。

622年、聖徳太子は49歳で薨去されたと伝わる。

 

迷いながらも発見した八幡太郎義家の墳墓。

元々は神式の墳墓だったらしい。

 

南大門を入ると、入母屋造の本堂が見える。

本尊の十一面千手千眼観音は国宝である。

 

応神天皇陵。最大規模の前方後円墳。

誉田天皇(ほむたのすめらみこと)は仲哀天皇の第四子。

 

道明寺山門。

今は道明寺天満宮と別れて小さくなった。

 

土師(はじ)氏の拠点であったことを示す石碑。

土師窯跡と読める。土師氏を渡来系とする説もある。

 

上ノ太子駅を降りたところ、畑で出会ったケリ。

お目にかかるのは学生時代以来ではないか?

 

しばらく歩いて、駅前のオブジェの意図するところが分かった。二上山(ふたかみやま)を模したものだ。

 

一旦叡福寺の外に出て、南側から北を向いて撮影した。

推古天皇から方六町の地を賜りとある。

 

汚れて判読が難しくなっている案内板。

寂しい墳墓だが、むしろ武人の墓らしい。