興福寺南円堂。

藤原氏の氏寺として古くから隆盛を極めた。

 

 

第9番「南円堂」

 

天智天皇とともに律令国家日本の礎を築いたといわれる藤原鎌足。現代日本にもその子孫は多く、藤原公清(きんきよ1166~1228年)が京都御所の左門を警備する左衛門尉(さえもんのじょう)に任じられたことから、左衛門の「左」と藤原の「藤」を組み合わせて「左藤」と名乗り、後に人偏を加えて「佐藤」になったといわれている。一説には左大臣の藤原から「佐藤」になったという識者もいる。

 

藤原鎌足の子・不比等は672年の「壬申の乱」を14歳の時、辛くも生き抜き、蘇我氏の娘を嫁としたことで力を伸ばし、持統天皇の時代に権力中枢に上り詰めたようだ。「日本書紀」に不比等の名が出るのは持統天皇3年(689)に判事に任命されたのが初出で(31歳)、持統天皇の子供(草壁皇子)に仕えて、法律や文筆の才によって登用されたと考えられる。遅咲きといえる。

 

日本書紀の編纂にも深くかかわり、書紀は藤原氏の正当性が強く印象付けられる内容になっていることは多くの学者が指摘するところである。しかし、そのことをもって、日本書紀は歴史書として信憑性に欠け、不適であるとは言えないだろう。日本書紀の完成する720年に不比等は生涯を閉じ、日本書紀の編纂者として舎人親王がクローズアップされる。不比等は見事にその存在を消したといえる。

 

興福寺の歴史について少し触れておく。

藤原鎌足夫人の鏡王女が鎌足の病気平癒を願い、釈迦三尊像を本尊として669年、山科に創建した山階寺(やましなでら)が興福寺の起源である。

 

 

 

672年、壬申の乱で大津宮が廃され、山階寺は藤原京に移り、厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

710年、平城京遷都に際し、藤原不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。

 

白洲正子さんの「西国巡礼」から、南円堂の歴史について触れる。

弘仁4年(813)藤原冬嗣の創建で、本尊の不空羂索(ふくうけんじゃく)観音は、鎌倉時代の康慶の作である。何度か火災にあったので、現在のお堂は徳川期の建築だが、がっしりとした建物で、興福寺の五重塔が正面に望める。(中略)この南円堂にしても、興福寺という、甚だ貴族的な大寺の一部であるとはいえ、藤原冬嗣は、弘法大師のすすめにより、一族の守本尊だった観音を、一般民衆に開放するため、新たに作ったお堂であるという。当時の貴族としては、ずいぶん思い切ったやり方だが、冬嗣という人は、そんな風に心の温かい大人物であったらしい。

 

不空羂索観音は西国三十三所ではここ興福寺南円堂だけだ。日本では一面三目八臂とする像容が通例で、立像、座像ともにある。南円堂は座像で国宝に指定されている。

奈良時代後期から平安時代にかけて盛んに作られたが、残っている像は少ない。古くからあったにもかかわらず他の観音菩薩に比べて数が少ないのは、藤原氏の守護尊であったため、大衆に親しまれなかったからではないかと思われる。

 

西国三十三所の七観音の中では、十一面観音像・千手観音像が二十一体で最も多い。他に如意輪観音像が六体、聖観音像が三体、馬頭観音像が一体、准てい観音像が一体。

 

 


南円堂の裏手から見た興福寺五重塔。

藤原氏の栄華が偲ばれる。

 

2018年に再建された興福寺中金堂。

創建者は藤原不比等とされる。

 

南円堂の三重塔。

平安朝の優雅な佇まいである。

 

奈良といえばこの半野生の鹿。

鹿せんべいを持っていると追いかけてくる。