汐入の庭「養翠園」

養翠園(国指定名勝)

先に園路案内図を掲載する。順路の東側三ツ橋と南側の狐山に注目願いたい。

 

西湖堤を模した三ツ橋と借景の章魚頭姿山(たこずしやま)

 

 

養翠園

 

養翠園事務所発行のパンフから引用する。
「これは文政元年より同8年に亘り紀州第10代藩主徳川治宝(はるとみ)候が水軒御用地内に造営せられしもので、明治維新前までは55万5千石の大藩として加うるに御三家の一と誇った旧藩主の遺跡が近年僅少となりつつあります折柄、旧地に旧状の儘(まま)良く保存され得た庭園及び建物であります。」

 

旧態依然とした文体で、おそらく100年変わらないパンフなのだろう。今の小学生や中学生が読めるとは到底思えない。こういう権威主義的なパンフは久しぶりに見た気がする。
文政元年(1818)から8年間かけて造営されたということなので、完成は1825年頃と読める。今から約200年前の庭園だ。
和歌山は伝統的に権威主義的なのかと思わせる出来事が和歌山から養翠園まで、バスに揺られて30分弱のなかでも感得した。
バス停に「公園前」「アパート前」というのがある。多分和歌山には公園が一つ、アパートが一つしかないのだろう。不親切で到底サービス業とは思えない。

 

開園9時ということで、9時前に行ったら入れてくれないと思ったら、開園前にもかかわらず、受付のオジサンが手招きして入れてくれた。権威主義ということではなく、アバウトなだけかもしれない。バス便が1時間に一本で、次の和歌山行は10時11分。1時間十分に庭園を堪能できる。私が庭園を鑑賞している間、祝日というのに誰一人観光客が来なかった。コロナウイルスのせいか、早朝のせいか、それとも……

 

再度パンフからの引用。
「御用地内の西南隅約1万坪にして大浦湾にのぞみ将軍家御庭師山本某の作と伝えられます。庭は蓬莱山水にして池泉回遊、舟遊式であります。大小の池(3500坪)を中心として、その周辺に立華ずかしの老松を廻らせ遠く焼山章魚頭姿山(たこずしやま)を背景となし、海水を湛えたる池面に其の影を映し、誠に雄大にして幽邃(ゆうすい)なる徳川中期の大名庭園であります。

 

 

 

池の中心に島を作り、中央に守護神を祀り南方に太鼓橋を架し、又三ツ橋は池中を長く北方に伸び中国の西湖を象(かたど)れる景色は訪れる者を喜ばせます。」

 

日本国王の庭「鹿苑寺金閣」の蓬莱神仙思想に似せて狐山に蓬莱石組(いわぐみ)を配し、養翠亭前の船着き場近くに、夜泊石(よどまりいし)を2列置いている。養翠園庭園で最も感心したのが、この蓬莱石組と夜泊石の組み合わせである。


順路通りに廻ると、最後に養翠亭の前で一休みすることになるが、そこで初めて視線は狐山の蓬莱石組みに注がれる。庭園を少しかじったことがある者なら、蓬莱石組みに気づき、次に夜泊石を探すことになる。やがて夜泊石を見つけ、自分で発見することの楽しさに興奮する仕掛けになっている。
庭園全体に紀州の青石をふんだんに使用し、高級感を演出しているが、なかでも蓬莱石組みの青石は見事というほかない。発見されやすいように大きく立派な青石が蓬莱石組みには使われている。また蓬莱山に向かう宝船の集団が夜泊石であるが、探す楽しみを損なわないように、あえて目立たない石が使われている。

 

今から約2200年前、中国に徐福という男がいた。
秦の始皇帝をだまし、童男童女3千人、五穀の種子、百工(各種技術者)を引き連れて大船団で紀元前219年、中国を出航した。目指すは不老不死の薬と仙人の住む蓬莱島。
そのまま徐福は二度と中国に戻らなかったという。
徐福のたどりつたところが日本と言われており、日本各地の羽衣伝説と結びつく形で徐福伝説は日本各地に今も残る。

 

<参考>
東京の小石川後楽園にも蓬莱島はあるが、残念なことに蓬莱石組みは見られない。また、西湖の景観を庭園に最初に取り入れたのも小石川後楽園ということになっている。
しかし、広島の縮景園やここ養翠園の西湖堤が有名で、小石川後楽園の西湖堤はあまり知られていない。


借景の天神山と章魚頭姿山(たこずしやま)。

庭園の一部として溶け込んでいる。

 

三ツ橋を渡りきったところで、振り返って撮影する。

ほぼ直角に曲がっている。

 

神社から太鼓橋を渡っていく。

鴨寄せ方面はカットして、狐山に向かう。

 

狐山から振り返って撮影。

太鼓橋と借景の天神山が美しい。

 

狐山の蓬莱石組み。

大きめの青石が使われていて目立つ。

 

養翠亭前の山灯篭。

好みもあるが、建物にあっているようには見えない。

 

直線の三ツ橋と曲線の章魚頭姿山の対比が面白い。

三ツ橋はこの先右手でクランクしている。

 

案内図には守護神とのみ記載されている。

左が伏見稲荷社で右が弁天木神社。

 

橋石も紀州の青石が使われている。

何とも贅沢である。

 

養翠亭前の船着き場。

当然紀州の青石である。

 

手前の夜泊石はほとんど水没して目立たない。

奥の2列目は不ぞろいの夜泊石。右手前は亀頭石か?

 

養翠亭。数寄屋建てのお茶屋の構造。

棟鬼瓦に文政4年(1821)の文字が残されている。