超然居(ちょうぜんきょ)から見た清風館と跨虹橋(ここうきょう)

 

 

縮景園

 

大名茶人といえば最初に思いつくのは小堀遠州であろう。遠州の陰に隠れてあまり目立たないが、上田宗箇も大名茶人といえる。

2人の経歴を比較してみよう。

小堀遠州(1579~1647年)元は小堀政一(まさかず)。従五位下遠江守に叙任され、以後この官命により、遠州(えんしゅう)と呼ばれる。南禅寺金地院、仙洞御所、二条城二の丸庭園、大徳寺孤蓬庵庭園などを作庭した。

 

上田宗箇(1563~1650年)元は上田重安(しげやす)。関ヶ原の後に剃髪して宗箇(そうこ)と名乗った。和歌山城西の丸庭園、粉河寺庭園、縮景園庭園、名古屋城二の丸庭園などを作庭した。

 

年齢は宗箇の方が16歳上だが、ほぼ同じ時期に活躍している。千利休が1591年に切腹しているので、小堀遠州は利休に会ってはいるが、茶道の師匠とは言いにくい。2人とも古田織部(1543~1615年)の弟子として知られているが、織部と宗箇の付き合いは遠州よりはるかに親密だったと思われる。近年の研究で「茶道長問織答抄」は遠州が書いたものではなく、和歌山藩主だった浅野幸長が上田宗箇を通して古田織部への茶の湯に関する質問と答えを書き記した文書であることが分かった。

上田宗箇は関が原で西軍につき、結果領地を没収されたこともあり、江戸時代を通して織部の継承者は小堀遠州であるという通説が大きくなってしまったのだと思われる。

 

上田宗箇は浪人後、和歌山藩主の浅野幸長に仕え家老となった。1619年、浅野氏が和歌山藩から安芸広島藩に移封されると、そこで縮景園を作庭することになる。

縮景園は元和6年(1620)に広島藩主浅野長晟(ながあきら)が別邸として上田宗箇に作らせた。東京ドームとほぼ同じ大きさの敷地の中央に池を作り、池を横断して欄干橋を設け、橋の左右に大きめの島を二つ配置し、鶴亀蓬莱のシンプルな庭園として当初造られた。

 

その後、宝暦8年(1758)に起きた広島市内の大火災により、縮景園も焼失した。

7代藩主浅野重晟(しげあきら)の時代に、京都の庭師清水七郎右衛門を招いて大改修が行われ(1783~1788年)、現在の形に近くなったと言われている。

 

 

1945年8月6日の原爆投下で縮景園も壊滅的な被害を受けたが、戦後の復旧・修復を経て現在の姿に至っている。

庭園の名称は当初「泉水館」「泉水屋敷」と呼ばれ、明治から第二次世界大戦までは「泉邸」と呼ばれていた。のちに「縮景園」と呼ばれるようになったのは、中国西湖の景観を縮小して造られたことによると伝えられている。

縮景園の池(濯えい【糸偏に櫻】池)には15の橋と14の島が作られ、それぞれに名前がついている。

 

跨虹橋(ここうきょう)

濯えい池を南北に結ぶ橋で俗に太鼓橋とも言われ、縮景園を象徴する橋が跨虹橋だ。園内のどこからでも見え、最も目立つ姿かたちで、主景といえよう。

天明の大改修の際、清水七郎右衛門により架橋された。名称は西湖6橋に由来する。

元々は木製の欄干橋が架かっていたところで、この橋が架けられたことで、縮景園の名前が採用されたといえる。

小石川後楽園の圓月橋に似て奇抜で、修学院離宮の千歳橋と同程度の大胆な手法を示しているところに特徴がある。

 

14の島のうち3島が鶴島で残りの島が亀島を示す。鶴島は西から東に積翠巌(せきすいがん)、蒼雪島(そうせきとう)、小蓬莱と名付けられている。

 

超然居(ちょうぜんきょ)のあたりは天明の大改修の時も、上田宗箇の意匠が優れているとして手が付けられなかったと記録にある。ここからの眺望が縮景園で最も美しい眺めの一つであろう。

 

戦後、復元・修復された建物として、3つの茶室と3つのあずまやがある。

かつて明治天皇の居室も兼ねた清風館は正門を入って正面にあり、北西の山中に明月亭、西の水際に夕照庵を配している。

あずまやは上田宗箇作庭当時の雰囲気を残す超然居、北東の山中に看花とう(きへんにクヌギ)、東の水際に悠々亭を配している。

他の見どころとして16基の灯篭が上げられる。元々庭園の添景物なので、本来目立ってはいけないものだが、ここではその意匠の奇抜さから、どうしても取り上げておきたい灯篭が複数ある。

  

<参考資料>

縮景園史(広島県編集・発行)2021年


初期の縮景園

広島県立美術館ジオラマ

 

積翠巌(せきすいがん)

3つの鶴島のうち最大

 

夕照庵に向かう飛び石

州浜のごろた石と飛び石の対比に趣がある。

 

超然居のあずまや。このあたりに初期庭園の様子が残されている。ここからの眺望が良い。

 

望春島の山灯篭

ここでは野面形灯篭と呼ばれる。

 

迎輝峰(げいきほう)からの眺望

約10メートルの標高があり、富士山に見立てられる。

 

楊貴妃が付けた冠に似ているところから名付けられた楊貴妃形灯篭。大徳寺聚光院の千利休の墓を模したのではないかとも言われる。

 

原爆に耐えて残った銀杏の木

原爆で焼けなかった木が園内に3本残されている。

 

夕照庵(せきしょうあん)

州浜から茶室に向かうシークエンスが美しい。

 

超然居近くの織部型灯篭

笠の部分が宝篋印塔に替えられている。

 

跨虹橋の東側の鶴島(小蓬莱)

神仙蓬莱が縮景園の主要テーマ

 

三連橋の先に悠々亭を移設。

清水七郎右衛門の好みが反映されたか?

 

迎輝峰を麓から見る。

標高が10メートル以上あるように見える。

 

清風館近くの庭園。

ちょうど冬ボタンの見頃だった。