滝野川金剛寺(紅葉寺)山門前の石碑。

寛政9年(1797)建立。

 

みんなの西国巡礼

 

西国三十三所をすべて巡った後で、家の近くのお寺に西国巡礼の記念碑があることに気が付いた。そのお寺は通称「紅葉寺」といい、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれていることで有名だ。

早速詳細を調べにお寺の住職を訪ねたが、色々調べた結果、資料がないという結論に達した。飛鳥山博物館に行けば何か分かるかもしれないが、とりあえず分からないなりに想像を働かせることにした。

 

高さ150センチメートルほどの記念碑の正面には「西国三十三所供養佛」と彫られている。

記念碑の側面に寛政9年(1797)と彫られているので、今から200年以上前のことになる。江戸の近郊滝野川村の著名人「榎本」「越部」の名前も彫られているので、村の有力者の音頭で記念碑が建てられたのだろう。実際に滝野川村の人々が西国巡礼に旅立ったものかどうか判然としないが、西国三十三所を志向していたことは間違いないだろう。

 

 

今では村を挙げて西国巡礼に旅立つという慣習はすたれ、私的に西国の観音霊場巡りをする人々が少数いるだけだろう。かくいう私も「私的参拝」を済ませたばかりで、個人的な経験をしてきたと思っていた。が、1300年前から続く「西国巡礼」に思いを馳せた時、今や日本人の尻尾と化し、失われた村の慣習と思われるものの、「私的参拝」が「みんなの西国巡礼」にシンクロする思いがする。それは歴史的・空間的な広がりを持って日本人の宗教観を問うているようにも思われる。

 

日本人は無宗教とよく言われるが、縄文時代から自然信仰はあったと思う。特に大石と大滝には畏怖の念を抱いていたと思われる。

それがどのようにして仏教と結びつき、日本人の死生観を育んでいったかは定かではない。

しかし、西国巡礼を辿ることによって、朧気ながらその筋道が見えてきたように思われる。

 


石碑の左側面

 

榎本、田中、清水、梶野、岩田、飯塚、石山、鈴木の名前が見える。

 

石碑の右側面

 

榎本、越部、石山、清水、関、松本の次に榎本孫兵衛同行□七人と読める。