国宝の多宝塔

1194年、源頼朝の寄進で建てられた。

 

 

第13番「石山寺」

 

コロナ禍の約1年半を経て、ようやく再開にこぎつけた西国巡礼。再開にあたって第二の故郷ともいうべき湖南の地「石山寺」から始めよう。

例によって白洲正子さんの「西国巡礼」から引用する。

 

この寺の歴史は、ずっと古く、天平時代にさかのぼる。大仏建立の資金を得るため、聖武天皇が良弁(ろうべん)に命じて創建され、その後、平安・鎌倉期を通じて、上下の崇敬を集めたが、紫式部がここで「源氏物語」を書いたというはっきりした証拠はない。が、景色といい、建物といい、そんな伝説ができ上っても仕方がないと思われるほど、この寺の舞台装置はととのっている。(以上引用)

 

琵琶湖周辺の山々は、頂上付近に大岩が露出していることが多く、縄文以来、人が定住することによって、大岩が信仰の対象として畏怖されてきたと思われる。

特に、石山寺ではそれが顕著で、国宝の多宝塔も珪灰石(けいかいせき)の大岩の向こうに配置されている。もともと信仰の対象であった大岩を前景にすることで、寺院に対する民衆の信仰を引き出しているといえよう。

 

奈良の仏教は当初民衆を相手にしない、エリート学僧のための仏教で、平地に大伽藍が建築された。東大寺や興福寺がそれにあたる。

 

 

一方、南都六宗の既存仏教に飽き足らない一部の仏教信仰者が、山岳地帯に分け入り小さな伽藍を建てた。そのことが結果として民衆に仏教が広がる契機になったのであろう。

もともと信仰の対象であった大岩と共存することで、仏教は神聖さを与えられた。

 

行基や良弁など社会活動家の顔を持つ仏教者たちは、ため池灌漑、道路や橋の土木作業に民衆を動員し、尊崇を集めた。一時、為政者は行基や良弁などを弾圧したが、聖武天皇は彼らを庇護し、東大寺盧舎那仏造立に協力させた。

 

西国巡礼は718年、長谷寺の徳道上人が閻魔大王から33の宝印を授かり、33の観音霊場を開いたことになっているが、実際はそれから約270年後の花山法皇に始まる。したがってこのころはまだ観音信仰が一般的ではなかったと思われるが、民衆にとって行基や良弁は生きた観音菩薩に見えたのではないかと思われる。実際、行基は信者1000人を数え、行基菩薩とも言われた。

 

良弁は瀬田の地で、琵琶湖周辺の山々で切り出された東大寺建立のための材木を集積し、石山院という役所を設け民衆を指導した。ここがのちの石山寺になるのだが、たぶん石材も切り出し、いかだに括り付けて流しただろうと推察される。

 


石山寺東大門(重要文化財)

源頼朝の寄進で建てられた。

 

紫式部の御所人形。

紫式部によって、石山寺は有名になった。

 

月見亭。ここから見る近江八景「石山の秋月」が有名。

1687年に再建された。

 

無憂園に造営された滝。

落差4メートルほどか?

 

本堂に入ると右手に如意輪観音が安置されている。

本堂内は撮影禁止。

 

国宝の多宝塔。

それほど大きなものではないが、国内最古。

 

紫式部像。

源氏苑に最近作られた。

 

無憂園を東屋から眺める。

画面中央に滝が見えるだろうか。