清水寺本堂。

観光客でいつも混雑している。

 

 

第16番「清水寺」

 

東人(あずまびと)にとって清水寺は400年以上前から京のシンボルであったと思われる。室町時代に発展した謡曲にも、清水寺を扱ったものが複数ある。

白州正子さんの「西国巡礼」から引用する。

清水寺の歴史も、雰囲気も、お能の「田村」と「熊野」を見れば、全部わかってしまう。(中略)「田村」は夜桜の幽玄を、「熊野」は花見の酔心地を、あますところなく見物に味わわせてくれる。お能には、まだその他にも清水を謳った曲がたくさんあって、現在、清水寺にこんなに人が集まるのは、たとえお能など見たことがない人たちでも、その影響を受けていることは疑えない。(以上引用)

 

寛永6年(1629)清水寺は大火により焼け落ちている。

その年に江戸の小石川後楽園は造営開始されているが、おそらく清水寺の焼失と小石川後楽園の作庭には深い関係がある。後楽園のグランドデザインは江戸を立って中山道を通り、京都清水寺を目指すように設計され、園内には清水観音堂の他に大堰川、渡月橋、東福寺通天橋など、京都の観光名所が配置されている。

 

 

 

後楽園は水戸藩祖松平頼房により造営されたが、三代将軍徳川家光も深く作庭にかかわっているようだ。家光は生涯に三度上洛している。西暦でいうと1623年、1626年、1634年である。清水寺の再建は家光によってなされ、最後の上洛の前年に完成を見ている。家光が最後の上洛を果たした1634年に再建なった清水寺を訪れたかどうかは定かでない。

 

寺伝によれば、清水寺は宝亀9年(778)、大和の僧・賢心(けんしん)が、夢告に従って訪れた音羽山麓で清らかな滝を発見、そのほとりに庵を結び、千手観音像を祀ったことに始まる。2年後、妻の安産祈願のため鹿を求めて音羽山に入った坂上田村麻呂は、賢心に殺生を戒められ、観音の教えを諭されて、仏法に帰依。自邸を仏殿に寄進したという。

本堂の下には、清水寺の信仰の源であり、寺名の由来となった音羽の滝がある。古来、延命の水といわれ、水垢離(みずごり)の霊場である。

清水寺については、あまりに有名で、さまざまに書かれているので、今まで原稿を起こすことに躊躇していた。最後の最後になってしまったが、この辺で西国巡礼の筆をおくことにする。

 


子安の塔。

奥の院付近の小峰に立つ。

 

小石川後楽園。

通天橋から渡月橋を望む。

 

音羽の滝。

修学旅行の生徒に人気が高い。

 

小石川後楽園の清水観音堂。

関東大震災で焼失した。