粉河寺(こかわでら)本堂と石庭。

3メートルほどの高低差を石積みではなく、石組(いわぐみ)庭園として整備した。正に「用六分景四分」でなければ、石垣が崩れてしまう。

 

 

第3番「粉河寺(こかわでら)」

 

白洲正子さんの「西国巡礼」から引用する。
「宝亀年間(8世紀)、粉河に住んでいた大伴孔子古(くしこ)という猟師が、ある夜山中で光る物を見、射てみると、生身の観世音菩薩であった。たちまち発心して、殺生を止め、あけくれ観音を念じていたが、ある夜一人の童子が宿を求めたので、泊めてやると、七日の中に金色の千手観音を彫り上げ、消え失せた。孔子古は、その童子が観音の化身であることを知り、いよいよ信仰を深めていった。


その頃、河内の国に一人の長者がいた。娘が大病にかかり、明日をも知れぬ命になった時、どこからともなく童子が現われ、加持したところ、ただちに病が直ったので、お礼をしようとしたが、取ってくれない。ただ一つ、娘が使いなれた箸筒を貰って帰り、住所は紀州、粉河寺の者、と告げて去った。日を経て、長者一家のものが訪ねて行くと、寺に安置してある観音像の手に、かの箸筒がにぎられていたという。
以上は粉河寺の縁起で、その一部が絵巻物になって伝わっている。」

 

粉河寺は大変広大な敷地を有し、鎌倉時代には約4キロメートル四方の境内に七堂伽藍と550の僧坊が立ち並んだ。のちの豊臣秀吉の紀州攻めでほぼ全山焼失し、江戸時代に紀州徳川家の援助のもと復興した。

 

 

 

粉河寺縁起は白洲正子さんの引用に止め、ここでは江戸時代の復興を中心に、「粉河寺庭園」について述べてみたい。

和歌山県では養翠園(ようすいえん)と並んで有名な「粉河寺庭園」であるが、現地の看板では「桃山時代の石庭」となっている。
しかし、2006年の和歌山県文化財センターの発掘調査により、1720年の本堂再建時に一体として作庭された可能性が高いことが分かった。昭和45年(1970)国の名勝に指定されている。


当初の作庭は千利休と師弟関係にある上田宗箇(そうこ)と伝わる。1563生~1650没。本堂再建時と年代が合わない。
戦国武将としても有名で、大坂冬の陣、夏の陣で活躍し、将軍秀忠及び大御所家康から激賞された。
隠居後は茶道と造園を趣味とし、浅野家の別邸「縮景園」を作庭した他、尾張徳川家に請われて「名古屋城二の丸庭園」の作庭も担当した。
千利休の忠実な後継者と目され、「渡り六分景四分」を忠実に実践した。古田織部が「渡り四分景六分」と茶道における千利休の思想を進化させたのと好対照である。

 

「風猛山(ふうもうざん)粉河寺」と称し、中門の扁額「風猛山」は紀州徳川10代藩主・治宝(はるとみ)の直筆と伝わる。治宝は養翠園庭園を造らせた藩主でもある。


朱塗りの大門。

宝永4年(1707)に再建。ちなみに同年富士山噴火。

 

粉河寺の中門。

扁額「風猛(かざらぎ)山」は「葛城(かつらぎ)」がなまったものではないかとの説もある。

 

本堂の左側は枯滝石組みで、滝上部に石橋を渡す玉澗流(ぎょくかんりゅう)の手法がとられている。桃山時代の特徴ともいわれる。

 

このあたりが亀を表すと思われる。が、土留めの石を後世の庭園研究家がそのように見立てたのかもしれない。

 

本堂側(上部)から見ても枯滝石組みが造られている。

松の根元にある立石が蓬莱山を表すのだろう。

 

粉河寺案内図。

鎌倉時代の広大さには及ばないが、今でも3万5千坪ある。

 

桃山時代を彷彿とさせる豪放磊落な庭園。

鶴亀蓬莱形式ともいわれるが、よくわからない。後世の見立てかもしれない。

 

鶴亀蓬莱の庭で松の下に鶴首石と羽石が見える。

右側に亀頭石らしきものが覗いている。

蓬莱山がどれか判然としない。

 

本堂に登る石段の右側。右側にいくほど、庭園のデザイン性はうすれて、本来の土留めの様相を呈する。

 

1720年に再建された本堂。複雑な屋根の構造だ。

1716年に8代将軍吉宗の時代になっており、将軍直轄の再建だったと言える。