壷阪寺「桜大仏」

案内板に「桜大仏」の表示があり、誘われるまま進んでいくと、撮影ポイントに到着する。

 

ご本尊の「十一面千手千眼観世音菩薩」

写真撮影が許されているご本尊は珍しいと思う。

 

 

第6番「壷阪寺(つぼさかでら)」

 

白洲正子さんの「西国巡礼」から引用する。
天平時代、奈良の元興寺(がんごうじ)に、弁基上人という坊さんがいた。壷坂山の幽邃(ゆうすい)を好んで移り住み、庵室を建ててこもったが、小さな水晶の壺を愛し、常に肌身離さず持っていた。ある時、その壺の中に、観音の姿を感得し、その通りの姿を刻んで、本尊とした。世の人呼んで「壺坂上人」と崇め、以来「眼」に対する信仰が生じ、ひいては眼病に効く仏として有名になった。沢市・お里も、盲人の養老院も、そうした伝統の現れなのである。


弁基上人は、その後いかなる理由があってか還俗し、春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)と名のったという。万葉集にも見える名前だが、その作風は、行い澄ました僧の心境ではない。例えば次の歌などは、老いてなお何ものかを求めて止まぬ精神を現わしており、読みようによっては、辞世の句めいて見えなくもない。

 

 

つぬさはふ磐余(いはれ)も過ぎず泊瀬山 いつかも越えむ夜は更けにつつ(万葉集巻三)
(以上白洲正子「西国巡礼」より)

 

浄瑠璃に「壺坂霊験記」というのがあって、沢市・お里が身投げをした話が有名で、子供の頃、浪曲「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ……」というのは聞いた覚えがある。
今では「壺坂」と書くのは「壺坂霊験記」くらいで、他は駅名にしろ、寺名にしろ、すべて「壺阪」となったようだ。「大坂」が今では「大阪」と書くのと同様である。

 

白洲正子さんが「壷阪寺」を訪れたころと違い、今はインドの巨大石造物が所狭しと並び、何か遊園地のテーマパークにいるような錯覚を覚える。
私が訪れた4月3日は、前日にテレビ中継があったせいか、駐車場に入れない車が延々と列をなしていた。これも観音様のご利益なのだろうか。

 


インドから贈られたという石仏群。

中央の釈迦如来が桜の咲く時期に「桜大仏」になる。

 

インドから贈られた石仏はまだ続く。長くインドでハンセン病患者の救済に尽くした縁とのこと。

 

三重塔(重要文化財)1497年頃に完成した。

古いお寺にただ一人とインドのカオスが同居。

 

苔むした五百羅漢石造物。

親の顔に似た羅漢像が必ずあると言われるが、顔の表情はほとんど読み取れない。

 

左の石仏群と対になる位置に「千手観音」

桜の背景はこの時期の特典か。

 

庭園らしき石組みの向こうにかすかに見える山々。

二上山ではないかと思う。

 

一旦壷阪寺を出て、五百羅漢に向かう。

20分くらい山道を登ると高取山の中腹にたどり着く。

 

藤原京から壷阪寺へは天武朝の皇族に関する古墳が多く点在し、壷阪寺は聖なるラインの終着点と言われる。

古墳の連なりの終着点に南法華寺(壷阪寺)が建てられた。