第7番「岡寺(おかでら)」

パンフレットには「東光山龍蓋寺(りゅうがいじ)」と記載されている。

 

岡寺の枯山水石庭。

小さな庭に非凡な美意識が垣間見える。砂紋が消えているのが惜しい。

 

 

第7番「岡寺」

 

壺阪山から乗った電車を飛鳥で降りて、まず欽明(きんめい)天皇陵に向かう。今日どうしても行きたいところは、岡寺の他には天武・持統(じとう)天皇陵と石舞台、それに飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)跡だろう。
持統天皇の諱(いみな)は鵜野讃良(うののさらら、うののささら)でシャンプーみたいな柔らかい名前だが、女帝の中でも実質的な権力を握った最強女帝だろう。里中満智子さんの漫画「天上の虹」が有名で、1983年から書き始められて2015年に完結している。漫画と馬鹿にしないで一度目を通してみると良い。

 

石舞台は、飛鳥のシンボルともいえる日本最大級の横穴式石室を擁する大方墳だ。推古天皇34年(626)に亡くなった当時の権力者蘇我馬子の墓とされている。蘇我馬子は厩戸皇子の影武者のような存在で、聖徳太子の事績はほぼ蘇我馬子が絵を描いたのだと思う。

 

飛鳥板蓋宮跡は伝がついているので、なかなか特定が難しいのだろう。
当寺の庶民の住居は竪穴式住居で、板葺きの家は立派だったといいたいのか、それとも当時寺院に採用されていた瓦葺の豪華な住居ではないと言いたいのか、よくわからない。
が、たぶん皇室は質素で庶民に寄り添っていたと言いたいのだと思う。
風が吹いてきて黄色い菜の花が揺れている。ここが大化改新(乙巳の変)の舞台になったかと思うと、田んぼの中の遺跡が急に血生臭い色に染まっていく。

 

 

 

岡寺については、白洲正子さんの「西国巡礼」から引用する。
三十三所の本尊のうち、一般に知られているのは岡寺の如意輪だけだろう。それより有名なのは、胎内仏の小さな観音で、常は京都博物館に陳列してあるが、天平最盛期の傑作である。「岡寺の観音は、半跏の膝に肘をついて、夢見るごとき、和やかな瞑想にふける。それが弥勒であるとしても、我々の印象は依然として観音である」と、「古寺巡礼」の著者は記しているが、胎内仏ということを考えれば、弥勒の方がふさわしいかも知れない。弥勒は未来に現れる仏だからである。

 

天智天皇の時代に、大蛇がいて、この岡の住民どもを悩ました。勅命を受けた義淵僧正が、法力を以って退治し、池の中に封じ込め、石に阿字を書いて蓋をした。それが龍蓋寺(りゅうがいじ)の名の起こりで、その池も、龍蓋池と名付けて、本堂の前にある。岡寺というのは、してみると土地の人が勝手につけた名前らしいが、龍蓋寺よりこの方が、ずっと親しみがあっていい。
(以上白洲正子「西国巡礼」より)


奥の院に続く参道には赤い鳥居があり、小規模な滝と井戸(瑠璃井)が残されている。那智大滝と同じように、ここでも水に対する信仰(神道)と仏教が深く結びついている。

 

<参考書籍>

白村江(荒山徹)PHP文芸文庫2020年

 


天武・持統天皇陵。

日本を律令国家に導いたのが、このお二人だろう。

 

岡寺に向かう途中に亀石と言われる石造物に出会う。

この石が西を向くと奈良は泥の海と化す(伝説)。

 

石舞台。

桜がほぼ満開だった。

 

伝飛鳥板蓋宮跡。昭和34年(1959)以来発掘調査が続けられてきたが、未だ特定には至っていない。

 

岡寺の龍蓋池。

左奥に小さな滝も用意されている。

 

奥の院に続く参道。

赤い鳥居が雰囲気を出している。

 

三重塔に向かう途中にシャクナゲの群落がある。

早くも咲き始めた。

 

天智・天武・持統の3人を中心にした物語。

完結までに32年を要した里中満智子のライフワーク。

 

聖徳太子御誕生所と読める。

橘寺は聖徳太子の生誕地に建てられた。

 

石舞台の内部も見学できる。

光が漏れているのが美しい。

 

飛鳥寺付近の菜の花畑。

のどかな田園風景が広がる。

 

義淵僧正が龍を池に封じ込めようとしている。

なお、義淵僧正の廟所も寺域内にある。

 

井戸と小さな滝がある。

パンフによれば、瑠璃井という。

 

三重宝塔。室町時代に台風により倒壊したが、昭和61年(1986)に、514年ぶりに再建された。